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NHKとともに復古を鼓舞する保守の狙い

本山美彦(大阪産業大学経済学部教授)

韓国併合100周年にぶつけてきたNHK『坂の上の雲』

 2010年は、日本による韓国併合100周年に当たる年である。日清、日露という二つの戦争を経て、韓国(注1)が日本の植民地として組み込まれ、その後、日中戦争、太平洋戦争に向かってまっしぐらに破滅の道を日本に走らせた原点である韓国併合(注2)の年である。日本人が当時持っていた「日本精神」のもっとも奥深いところで、韓国併合とはなんであったのかを自省しなければならない非常に大事な節目の2010年を挟む3年にわたって、司馬遼太郎の「坂の上の雲」がNHKの日曜日のゴールデン・アワーズで放映されることになった。日本に侵略された地域の人々の激高を買ってまで、この時期に、韓国をめぐる二つの戦争を遂行していた当事者たちの青春ドラマを放映するNHKの狙いはどこにあるのかは不明だが、これでまた、日本人は、過去の戦争を聖戦であったという宣伝に浸ることになるのだろう。

 「このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である」、「楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」(司馬[2004]、第1巻「あとがき」、448〜49ページ)。

 言葉の使い方に統一がないことはまだ許せる。許せないのは、事実であると読者に公言しながら、そのじつ、小説の架空の世界を展開する詐欺である。

 「この作品は、小説であるかどうか、じつに疑わしい。ひとつは事実に拘束されることが百パーセントにちかいからであり、この作品の書き手—私のことだ—はどうにも小説にならない主題を選んでしまっている」(司馬[2004]、第4巻「あとがき」、499ページ)。

 この文章を読めば、私たちは、素直に史実に忠実に書かれた歴史物であると信じてしまう。史実とは難しい。現在、沖縄基地反対運動がある。逆に、基地必要論がマスコミに多い。将来、いまの歴史を書くさいに、マスコミの基地必要論のみを取り上げ、基地反対運動を無視したとしよう。確かに基地必要論があったのだから、嘘の叙述を行ったわけではない。しかし、基地反対運動を黙殺して、現在を、基地必要論が支配していた時代であったと将来の時点で決めつけられてしまえば、それはれっきとした詐欺である。司馬は堂々とこの種の詐欺を働いた。

 本当に、日本には、日清、日露戦争に踏み切る以外の選択肢がなかったのかを、真摯に自省してみることが2010年にはとりわけ必要なことである。「あの時代はよかった」ではなく、「あの時代、東アジアを日本が地獄に叩き込んだ。どうすれば贖罪ができるのか」という自省がいまの日本には求められているのに、なんたることか。

 遠くから日本を眺めていたネルーの次の言葉が、当時のアジア人の偽らざる心境であっただろう。

 「(日清戦争の日本の勝利によって)朝鮮の独立は宣言されたが、これは日本の支配をごまかすヴェールにすぎなかった」(ネルー「1996」、170ページ)。

 「日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかを、われわれはみた。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけくわえたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった。日本の勃興は、朝鮮の没落を 意味した」(ネルー「1966」、181ページ)。

 ところが、司馬は、日清・日露戦争の原因は、清国とロシアに挟まれた朝鮮の地理的空間にある、朝鮮を他の強国に取られてしまえば、日本は自国を防衛するのいが困難になっていたとの主張を展開したのが『坂の上の雲』の第2巻だったのである。

NHKの司馬遼太郎特番に呼応する風潮

 NHKの狙いは成功しつつある。「日本的なもの」を復古させ、その上で軍事力強化による「安全保障」という使い古された国民世論形成の仕掛けが、保守を標榜するジャーナリズムで大規模に作られつつあるからである。

 たとえば、佐伯啓思は言う。坂本龍馬や秋山好古・真之兄弟を扱かったNHK大河ドラマは、行き詰まった幕末に、「めずらしく大きな構想力と行動力をもった若い下級武士たちが現れ、『国の将来』を憂えるその純素御名行動力が、旧態依然たる支配体制を覆して新生日本をうみだした。それに続く先見の明をもった明治の指導者たちは、アジアの植民地化をもくろむ列強の中にあって、日本を列強と並ぶ一等国にまでもちあげた」、「明治の近代国家形成は、世界的視野と健全な愛国心をもったすぐれた政治指導者によってなされ、近代日本の栄光の時代であったが、昭和に入って、軍部の台頭と過剰な愛国心によって日本は道を誤った」という「ものがたり」である。「この『ものがたり』を認めるのにやぶさかではないのだが」、「列強と型を並べれば」、「列強との摩擦を引き起こす」、「いずれは列強との戦争になる」。急激な「西欧模倣型近代化の帰結は」、「列強との強い軋轢を生み出し、他方では『日本的なもの』の深い喪失感を生み出していった。その両者が相まって、強烈なナショナリズムへと行き着くのである」、「われわれは、国の方向が見えなくなり、自信喪失に陥ると、しばしばこの『ものがたり』を思い起こそうとする」、「それはそれでいいのだが」、しかし、「(それだけでは)困る。西欧型の近代化と、『日本的なもの』の喪失というテーマは、今日でも決して消失したわけではないからである」。

 佐伯の文章は、慎重に言葉を選び、「あの若くて元気で希望に燃えた日本を思いださせてくれる」単純さを戒め、戦争という歴史の冷徹な「論理」を強調するのだが、「複雑」思考を装いながら、「日本的な」復古への必要性を訴えている論調になっている。これは、軍事力強化という冷徹な「論理」を復古的思潮状況の創出によって人々に意識させようとする保守的ジャーナリズムの活動の一翼を担う文章であることに代わりはない(佐伯[2010]、2面)。

 軍事力強化の冷徹な論理を訴える渡辺利夫の文章も、上の文章と同じ日に発表された(渡辺[2010]、9面)。

 「(政治指導者に求められるのは)平時にあってはきたるべき危機を想像し、危機が現実のものとなった場合にはピンポイントの判断に誤りなきを期して恒常的な知的錬磨を怠らざる士たること、これである」、「開国・維新から日清・日露戦争にいたる緊迫の東アジア地政学の中に身をおいたあまた指導者のうち、位を極めたものはすべてがこの資質において傑出した人物であった。象徴的な政治家が陸奥宗光である」、「三国干渉という煮え湯を飲まされるまでの、国家の存亡を賭した外交過程を凛たる漢語調で記した名著が『蹇蹇録(けんけんろく)』である」、「三国干渉」が、「軍事力の相違」の結果であることを「国民にめざめさせ、『臥薪嘗胆』の時代を経て日露戦争へと日本を向かわしめたのも往事の政治指導者の決断であった」。「進むを得べき地に進(む)」という陸奥の言葉を渡辺は非常に高く評価する。その上で、緊迫したアジアの軍事情勢下では、「『進むを得べき地』は」、「世界最大の覇権国家米国との同盟以外にはあり得ない」と断じ、「日米同盟は」、「有事に備えるための地域公共財でもある。日米同盟なき東アジアはいずれ中国の地域覇権システムの中に身をおくことを余儀なくされよう」と渡辺は断定する。佐伯の屈折した文章とは対照的な渡辺の単刀直入の文章は、余計に明確に冷徹な軍事力の必要性を打ち出している。

 陸奥の『蹇蹇録』の表題は、「心身を労し、全力を尽して君主に仕える」という意味の『易経』にある「蹇蹇匪躬」から取られたものであることと、『蹇蹇録』には、次の文言があることを付言しておく。

 「この際如何にしても日清の間に一衝突を促すの得策たるべきを感じたるが故に、(1894年)7月12日、大島公使に向かい北京における英国の仲裁は已に失敗したり、今は断然たる処置を施すの必要あり、いやしくも外国より甚だしき非難を招かざる限り何らの口実を用いゆるも差支えなし、速やかに実際の運動を始むべしと電訓せり」(陸奥[1983]、73ページ)。

 このレベルの低い文章を見ると、私などは、とても、陸奥を「資質において傑出した人物」であるとは思われない。むしろ、このような政治的指導者を戴いたことを心から恥ずかしく思う。

 事情はこうである。1875年、明治政府は江華島(Kanghwa-do)に艦砲射撃を行った。江華島事件である。明治政府は、国交がなかった国になんの予告もなく近づき、朝鮮側から砲撃されたので応戦したと説明しきたが、それは挑発以外のなにものでもなかった。

 この事件のあった翌年の1876年、日朝修好条規が結ばれた。それは、朝鮮を開国させる不平等条約であった。それに反発した朝鮮軍が1882年(壬午)に反日のクーデターを起こした。「壬午(Im-O)」事変である。この事変で朝鮮への影響力を増大させた清に対抗して明治政府は親日政権を作るべく、1884年(甲申)に「甲申(Gap-Shin)政変」を支援し、日本軍が朝鮮王宮の景福宮(Gyeongbokgung)を警備したが、清の袁世凱(Yuan Shikai)軍の介入によって、日本軍は撤退し、クーデターは失敗した。1885年、日清間で天津(Tianjin)条約が締結され、日清双方とも軍事顧問の派遣中止、軍隊駐留の禁止、しかし、止むを得ず朝鮮に派兵する場合には事前通告義務などが取り決められた。

 陸奥の日記にある1894年7月12日の指示は、1894年(甲午)に発生した「甲午(Gap-O)農民戦争」と関連したものである。農民反乱鎮圧のために、朝鮮政府は清に応援を頼んだ。これに反発した明治政府は、天津条約を盾に、止むを得ない状況が起こったとして、朝鮮に出兵した。反乱軍は日清両国の介入におののき、朝鮮政府と和解した。つまり、日本は軍を朝鮮に駐留させる口実がなくなった。

 朝鮮政府は、日清両軍の撤兵を要請したものの、両軍とも受け入れなかった。6月15日、伊藤博文内閣は、朝鮮の内政改革を日清共同で進める方針であるが、それを清が拒否すれば日本単独で指導するというシナリオを閣議決定した。6月21日、清が日本の提案を拒否すると、伊藤内閣と参謀本部・海軍軍令部の合同会議で、いったん、中止していた日本軍の残部の輸送再開を決定した。英国が調停案を提示したが、7月11日、伊藤内閣は、清との国交断絶を表明した。日清開戦の危機が一気に高まった。7月16日、日英通商航海条約が調印され、英国が日本の側に立つことになった(ただし、この条約が公表されたのは、8月27日)。

 このような緊迫した時期に外相の陸奥の指示が出されたのである。それは、開戦の口実を探せという指示であった。大島公使は即座に行動した。7月20日、大鳥公使は、朝鮮政府に対し、朝鮮の「自主独立を侵害」する清軍の撤退と清朝間の「宗主・藩属関係」の解消について、3日以内に回答するように申し入れた。7月22日夜、朝鮮政府は、「改革は自主的に行う」、「乱が治まったので日清両軍には撤兵してもらう」という当然の内容の回答を大島公使に渡した。

 ただちに日本軍は行動を起こした。7月23日午前2時、日本軍の2個大隊が首都・漢城(Hanson)の電信線を切断し、朝鮮王宮の景福宮を占領した。そして、政府内の閔氏(Minshi)一族を追放した上で、閔氏によって追放させられていた興宣大院君(Heungseon Daewongun)を担ぎ出して新政権を樹立した。朝鮮から日本に清軍撃退を要請させるためであった。日清両軍が朝鮮内で衝突があったのち、8月1日、日清両国は宣戦布告をした(藤村[1973]、参照)。

 口実を設けて、清を叩く戦争を狙い通り起こすことに陸奥は成功した。しかし、その行為は、「資質において傑出」しているとは、とてもではないが言えるものではない。そうした持ち上げは、まさに、司馬に並ぶ単純な理解である。

 いつの時代にも知性に科せられているのは、眼の前の具体的な権力に無批判に近づくことではなく、捏造された時代精神と敢然と闘うことであると私は信じている。

時代と闘った人

 保守主義的イデオロギーは、古今東西を問わず、悠久の古代の神話によって民族的アイデンティティーを鼓舞するものである。明治政府は、古代の神武天皇神話に復古しようとするイデオロギーを国体とした。それは、朝鮮領有を熱望するものであった。

 明治政府は、1883年に紙幣を発行した。人物像が印刷された紙幣としては、日本で最初のものであった。その人物とは、神話の神功(じんぐう)皇后であった。この人は、仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母である。『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)と記されている。神のお告げによって、新羅、高句麗、百済を征服したという三韓征伐をはたした女性英雄である。ちなみに、私が住む御影(みかげ)は、三韓征伐の帰途、立ち寄った泉(沢の井)に自分の姿を写して化粧をした、つまり、おみ影を映された場所という神話から採られた地名である。

 国家権力の象徴に朝鮮征伐の神話を図案化した点に、明治政府の朝鮮領有意思の誇示があった(中塚「2009」、192ページ)。

 武内宿禰(たけしうちのすくね)というこれも神話上の人物がある。景行、成務、仲哀、応神、仁徳の5代のわたる天皇に仕え、250年以上も生きたという長命の人である。三韓征伐を成功させた。鳥取市の宇倍神社や、敦賀市の気比神宮で祀られている。

 この神話上の人物が韓国併合後に設立された朝鮮銀行券の肖像になっていたのである。1円、5円、10円、100円札である。しかも、日本の敗戦までこの肖像画入りの紙幣は使われていた(姜徳相編[2007]、14ページ)。三韓征伐の功労者とは、朝鮮人にとって征服者である。この征服者の肖像入りの紙幣使用を強制された朝鮮人の屈辱たるやいかなるものであったか、察するに余りある。

 当時にも、明治時代に日本の中にあった征韓論を批判する人がいた。中でも特筆すべきは、田中正中(せいちゅう)である。じつに、1875年という早い時期に征韓論批判を展開していたのである。彼の論文を見出した中塚明ですら、どんな人物か不明であると書いている(中塚[2009]、159ページ)。それは、佐田白茅(はくほう)という外交官が1875年に編集した『征韓評論』に収録されている。佐田自身は、征韓論の西郷隆盛に心酔していて、1871年に官吏を辞任した人である。当然、『征韓評論』は圧倒的に征韓論で占められているのであるが、田中はその批判論文を寄稿している。『征韓評論』は、明治文化研究会編[1929]に収録されている。

 (1)朝鮮領有は、ロシアの進出を阻止するためであると主張は、「戦」(いくさ)の無知から出たものである。朝鮮の攻略はできても、朝鮮人の心を掴むことはできない。(2)朝鮮の占領に成功してもそれはかえって周囲に反日という敵を作り出すだけである。(3)朝鮮占領ではロシアの進出を防ぐことはできない。④占領によって朝鮮に日本の文明を進めようとしても、なにも問題を起こさない弱小国を攻略するのは不義である。(4)ことさら朝鮮でことを起こせば、人命が失われるし、費用もかかり、兵糧もいる。費やされる財貨のことごとくは抜け目のない外国商人によってかすめ取られるであろう。(5)心根の美しい朝鮮人をなぜひどい目にあわせる必要があるのか(中塚[2009]、159〜62ページより重用)。

 もう一人を紹介しよう。

 1919年3月1日の朝鮮における三・一独立運動直後の5月に、日本基督教会の全羅北道(Jeollabuk-do)群山(Gunsan)教会に鈴木高志という牧師が、日本基督教会機関誌『福音新報』(1919年5月8・15日)に以下のような激越な日本人批判を寄稿している。これも田中論文に通じる良識ある考え方である。

 長い寄稿文でもあり、格調高い旧文体ではあるが、現代的には読み難いので、平たく要約させていただく。タイトルは「朝鮮の事変(独立運動)について」である。

 暴動は鎮圧できるであろう。しかし、鎮圧できないのが、朝鮮人の精神、つまり、彼らの排日思想である。排日思想という彼らの感情は根深い。

 そうした感情が生まれたのには、いろいろな要因がある。遠因としては、朝鮮人の対日軽蔑、倭寇への憎悪、豊臣秀吉への怒りがある。近因としては、併合への反感、日本の独善的(主我的)帝国主義への反発、政治的不満、経済的不安、社会的差別への反感、日本人の道徳のなさへの反感、などが考えられる。

 しかし、もっとも大きな要因は日本の主我的帝国主義への反発である。根本には日本の国是に対する反発がある。これは、朝鮮だけの反発ではない。中国、米国、豪州でも同じである。世界にある排日思想は、日本の主我的帝国主義が生み出したものである。それは日本の帝国主義が生み出している影である。影を憎む前に、先づ自身を省みる必要がある。「国威を海外に輝かす」「大に版図を弘める」「世界を統一する」とかが日本の理想とされ、それを主義として進んできた結果が、隣近所をすべて排日にしてしまって、日本の八方塞がりを招いている。

 朝鮮人も人間である。国民的自負心もあり国家的愛着心もある。ところが、日本人は、愛国心を日本人のみの専売特許のように思い込んでいる。「日本主義」を謳って、日本人は、傍若無人に振る舞ってきた。そうするかぎり、日本に対する彼らの反感は止むはずはない。私たちは、このような日本主義的精神から脱(擺脱、ひだつ)して、「自分を愛するように隣人を愛する」という愛の道徳に立たねば、東洋での位置を確保できなくなるであろう。ところが、日本の学校では、倭寇、征韓の役の武勇伝が、年少者たちの血を沸かす題目になっている。朝鮮では、この題目が排日思想の種子蒔となっているのである。当然である。倭寇は、沿岸のいたるところで家を焼き、物を奪った。虎よりも恐しいものは日本人であった。征韓の役にいたっては、全国焦土となり、朝鮮はこの役以来、疲弊して復興することができなくなったのである。朝鮮人としては日本を恨まざるを得ないのである。

 にもかかわらず、日本の国民教育方針は10年経っても、20年経っても、依然としてこの主我的帝国主義の外に出ない。日本の教育における修身、歴史読本、唱歌のいずれの教育科目も、旧式日本の愛国心を鼓舞(涵養)するだけである。日本の愛国心は、自国本位、無省察、唯物的である。日本だけを知って、他国のことを考えないものである。その結果、海外に住むのに非常に不向きな日本人を造り出してしまった。朝鮮にきている日本人は、婦女子にいたるまで威張ることのみを知って、愛することを知らない。取り立てることを知って、与えることを知らない。「われわれは日本人なり」とふんぞり返り、下に立つ道徳を知らない。それどころか、「上に立つ者は権力を握る」という意識で朝鮮人を圧倒し、蹂躙する。それが日本魂であるかのように心得ている。

 朝鮮人は、買物に行っても、役所に行っても、つまり、どこに行っても、日本人に敬愛されることがない。いつも、日本人によって蹂躙され、馬鹿にされ、虐げられているという感覚のみを味わう。併合への反感、総督政治に対する不満もある。日本人が資本の威力を発揮して、広大な土地を買い占め、利益を貪るのを見て、経済的不安の念に駆られ、日本人駆逐すべしと言う朝鮮人もいる。すべての朝鮮人は、社会的に悪く待遇されていることから日本人に反感を抱いている。だからこそ、今回の独立運動は、燎原の火の勢いで各地に波及したのである。その根本原因は帝国主義の中毒にある。今日の学校、今日の軍隊の教育方針では、水原事件のようなことが生じるのは必然である。いくら総督府で善政を布こうとしても駄目である。日本人の素質が変わら
ねばならないのである。

 例外はあるが、在鮮日本人の道徳には遺憾なる点が少なくない。大多数の日本人は、神を畏れず、恥を知らず、金儲け以上の高尚な理想を持っていない。鮮人の無知と貧乏とを奇貨とした悪辣な輩が多い。実業者の道徳の低さは内地でも困った問題であるが、そうした道徳の低い連中が日本の代表者である。たまったものではない。米国人などに日本が見くびられる一つの原因は彼らの不道徳である。日本の商人は量をごまかし、衡(はかり)をごまかしている。日本人が入ってきたために、朝鮮人の道徳は甚だ悪くなった。この頃は鮮人もまた量や衡をごまかすようになった。

 男女間の道徳面での同胞の淫逸放蕩な様は慨嘆に耐え難い。公私宴会の醜態には驚くべきものがある。それを植民地の特権のように心得ている。私はある光景を見た。汽車に乗っていた時、某駅で、ドヤドヤと後からきたものがある。見れば、其地方の一部長(道長官の補佐役、内地でいう内務部長)と警務部長とが、あるべきことか、各々、左右から数名の醜業婦に抱きかかへられて、佩剣(はいけん)を引ずり、酔歩漫跚(すいほまんさん)して、ようやく乗車した、否、させられた。しかも、発車するまで、白昼に、醜業婦たちと戯れていた。見送りのために、郡守や憲兵隊長をはじめ、幾名かの役人が見ていた。多くの乗降客群が見ていた。その大多数は、白衣の鮮人であった。私は、じつに恥かしかった。官吏にして然り。その他は推して知るべしである。

 こういう為体(ていたらく)でどうして朝鮮人の尊敬を得ることができるのだろうか。私たちは、朝鮮人が親日になってくれることを願う。しかし、親しむということは、相手に対する愛か敬があって、初めてできるものである。愛は、ただ、愛によって起る。しかし、日本人は前述の通り愛ということを知らない。どうして彼らに、私たちに対する愛が起り得ようか。敬についてはどうか。日本人の今日の道徳をもってして、どのようにして、彼らの敬を要求することができようか。朝鮮問題を考えれば考えるほど、問題は精神的なものに移る。日本の国家的理想において、教育の方針において、国民個々の品性と道徳において、いずれも、根本的な革新が必要であることは明白である。日本は、どうしても、いま、生れ変らなければならない(『福音新報』第1246号、小川・池編[1984]、456〜61ページ)。

 彼の日本人批判はいまでも通じるものである。

(注1)朝鮮と韓国との呼称について記す。李氏朝鮮は、1392年、高麗の武将、李成桂太祖が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即いたことで成立した。李成桂は、翌1393年に中国の明から「権知朝鮮国事」を付与され、国号をそれまでの高麗から朝鮮に改めた。1401年、太宗が明から朝鮮国王として冊封を受けた。そして、日清戦争終結後、日本と清国との間での下関条約によって、朝鮮に対する清王朝の冊封体制が廃止され、朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(韓国)に改められた。朝鮮国王も韓国皇帝に改称された。しかし、1910年の第三次日韓条約によって、韓国は日本に併合させられてしまった。この時の韓国は、いまの朝鮮人民民主主義共和国を含む半島全体の呼称だったのである。したがって、併合は朝鮮・韓国併合ではなく韓国併合が正しい。ちなみに、日韓併合という用語は通称である。また、この間の韓国の宗教状況については、Grayson[1989],pp.141-184で詳述されている。

(注2)周知の史実であるが、韓国併合に関する基礎的な流れを簡単に整理しておきたい。(1)1904年。日露戦争中の2月23日、日韓議定書、日本が韓国施政忠告権や臨検収用権などを確保した。8月22日、第1次日韓協約、韓国政府は、日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなった。(2)1905年。高宗はこれを良しとせず、3月にロシアに、7月にロシアとフランスに、10月に米、英に密使を送る。日本政府は大韓帝国が外交案件について日本政府と協議のうえ決定・処理しなければならないとしていた同条約を遵守する意志がないと考えた。日露戦争終結後の11月17日、第二次日韓協約、韓国の外交権はほぼ日本に接収されることとなり、事実上保護国となった。乙巳年に締結したという意味で乙巳條約、乙巳五條約、乙巳保護条約、乙巳勒約と呼んだりする。締結当時の正式名称は「日韓交渉条約」。12月21日、漢城に統監府設置。(3)1907年。7月18日、ハーグ密使事件の発覚によって、日本政府は、高宗を退位させた。7月24日、第三次日韓協約、高級官吏の任免権を日本の韓国統監が掌握すること、韓国政府の官吏に日本人を登用できることなどが定められ、これによって、朝鮮の内政は完全に日本の管轄下に入った。また非公開の取り決めで、韓国軍の解散、司法権と警察権の委任が定められた。(4)1909年。6月14日、韓国統監の伊藤博文が枢密院議長になり、副統監の曾禰荒助が統監になった。7月6日、適当な時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱の閣議決定。憲兵・警察官の増派、日本人官吏の権限拡張が内容。7月26日、「韓国政府の中央金融機関としての韓国銀行の設置を承認する」という日韓覚書。10月18日、「警察署長・分署長に、拘留・科料以下の罪につき即決権を与える」という犯罪即決令公布。10月26日、ロシア外相と会談のためハルビン駅に到着した伊藤博文(69歳)が韓国人のクリスチャン、安重根(31歳)に射殺された。(5)1910年。3月26日、安重根の死刑執行(32歳)。2月28日、小村寿太郎外相により在外使臣(外国駐在日本大使)に対し、韓国併合方針および施設大綱を通報。5月30日、陸軍大臣、寺内正毅が韓国統監兼務。8月16日、寺内正毅統監が韓国首相の李完用に日韓併合に関する覚書を交付。8月22日、日韓併合条約調印。「韓国皇帝が韓国の統治権を完全かつ永久に日本国天皇に譲渡する」ことなどを規定。8月29日、韓国の国号を朝鮮と改称し、漢城を改称した京城に、朝鮮総督府を設置、当分の間、統監府も併置。8月29日、「法律を要する事項を総督の命令で規定することを認める」法令公布。9月12日、韓国統監府は、朝鮮の全政治結社を解散させる方針により、一進会に解散を命じ、解散費15万円を支給。9月30日、「総督は陸海軍大将とし他に政務統監を設置する」という朝鮮総督府官制を公布。9月30日、朝鮮総督府臨時土地調査局官制公布。10月1日、3代目の韓国統監の寺内正毅が初代朝鮮総督。寺内正毅は陸軍大臣も兼任。12月29日、朝鮮における会社設立には、朝鮮総督府の許可制とするという朝鮮総督府による会社令制定、当然、朝鮮人に不利。(6)1911年。4月17日、朝鮮総督府が、所属不明の土地を国有地として没収し、日本人の地主・土地会社へ払い下げるという土地収用令制定、その結果、朝鮮人農民は土地を失い没落。6月、朝鮮総督暗殺計画発覚、米国人宣教師との関係が問題となった(105人事件、宣川事件)。7月13日、「米国を協約の対象から除く」という内容の第三回日英同盟協約調印。(7)1912年。7月8日、特殊利益地域の分界線を内蒙古まで延長し、東側を日本、西側をロシアとするという内容の第三回日露協約調印。(8)1914年。7月28日、第一次世界大戦勃発。(9)1916年。7月4日、「中国が第三国の政事的掌握に陥るのを防ぐために相互軍事援助を行う」という内容の第四回日露協約調印。(10)1917年。11月、ロシア10月革命。(11)1918年。8月2日、シベリア出兵宣言。8月3日、米騒動。(12)1919年。1月18日、パリ講和会議。3月1日、京城・平壌などで朝鮮独立宣言が発表。示威運動は朝鮮全土に拡大(三・一独立運動、万歳事件)。4月8日、陸軍省は、朝鮮の騒擾を鎮圧するため、内地より6個大隊と憲兵400人の増派を発表。4月10日、朝鮮の民族主義者は、上海に大韓民国臨時政府を樹立、国務総理には李承晩。4月12日、関東庁官制・関東軍司令部条例の公示。関東都督府の廃止、関東庁の設置、初代関東長官に林権助、関東州と満鉄の警備に都督府の陸軍部を独立させて関東軍の設置、関東軍司令官に立花小一郎、司令部は旅順、兵力は1個師団1万人。4月15日、朝鮮総督府は、政治に関する犯罪処罰の件を制定、その内容は、「政治変革をめざす大衆行動とその扇動と厳罰に処する」というもの。5月5日、間島日本領事館放火される。6月4日、朝鮮における日本の常備師団は21個師団となった。8月12日、海軍大将斉藤実を朝鮮総督に任命。9月2日、朝鮮総督の斉藤実、京城南大門駅で爆弾を投ぜられた。犯人は羌宇奎とされ処刑(岩波書店編集部[1991]、参照)。

引用文献

・小川圭治・池明観編[1984]、『日韓キリスト教関係史資料、1876〜1922』新教出版社。
・姜徳相編[2007]、『錦絵の中の朝鮮と中国』岩波書店。
・佐伯啓思[2010]、「日の陰りの中で─歴史『ものがたり』と『論理』」、『産經新聞』、2月15日、2面。
・司馬遼太郎[2004]、『坂の上の雲』(新装判)、文藝春秋。
・中塚明[2009]、『司馬遼太郎の歴史観─その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う』高文社。
・ネルー、ジャワーハルラール、大山聡訳[1966」、『父が子に語る世界歴史、第4巻「激動の19世紀』、みすず書房。
・藤村道生[1973]、『日清戦争』、岩波新書。
蛤御門
蛤御門

・陸奥宗光[1983]、中塚明校注『新訂・蹇蹇録』、岩波文庫。
・明治文化研究会編[1929]、『明治文化全集・第24巻・雑史編』日本評論社。
・渡辺利夫[2010]、「正論─『陸奥宗光よ、ふたたび』を思う」、『産經新聞』、2月15日、9面。


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